近江商人たるゆえんは「陰徳善事」

典型的な近江商人の姿は、
1.近江に本家(本宅・本店)を置いて他国稼ぎをしていた
2.創業期には行商(旅商い)をしていた
3.商圏の拡大とともに全国に出店を設けていった
4.薄利多売で、さまざまな商品を取引していた
5.共同経営形態(当時の言葉で「乗合商い」「組合あきない」)や複式帳簿などの近代的な経営を行っていた
6.勤勉・倹約・正直・堅実といった商人精神に支えられて、陰徳善事の実践者であった

「奢者必不久」...三代目:松居久左衛門遊見

奢者必不久 (嘉永5年 84歳、遊見の遺訓)
奢れる者必ず久しからず

出精専一之事、無事是貴人、一心、端心、正直、勤行、陰徳、不奢不貧是名大黒
精を出して働くことを第一とすること、これが貴ぶべき人である。一心、まどわされない心、正直、勤め励む、人知れず行う善行、奢らない、執着しない、すなわちこれ商売繁盛の商道である。

三代目:松居久左衛門遊見は、明和7年(1770年)近江国神崎郡位田村(東近江市五個荘竜田町)で生まれた。先祖伝来の農業を本業としながら、遊見はその合間に二代目の父と京都や大阪などを行商に励んだ。40歳の時に父を失い、本格的に家業を継いだ遊見は繰綿・麻を尾州・遠州から仕入れて、信濃や上州、江戸へ持ち下り、生糸・紅花・絹布を信州・奥州から仕入れて、京都・大阪・丹後の地で売りさばいた。その結果、膨大な利益を得た財力で、江戸と京都に出店を設け、江戸店では呉服・木綿・水油・生糸などを取扱い、京都店では呉服・木綿で商いをした。

遊見は、江戸と京都の出店には、有力な番頭を置き、自分は郷里の五個荘で本店を主として働いた。ときどき、店回りを行い、各出店を指揮し、出店の利益金は必ず本店へ送金させた。

江戸より五個荘の本店へ売上金(千両箱)を運ぶ途中、箱根の山中で起こった逸話が残されている。

手代(番頭と丁稚の中間に位置する使用人)に千両箱を持たせて、夜中、ちょうど箱根峠に差し掛かったとこと、たき火をしている2人の山賊に出会った。

遊見は堂々とした態度を見せて、「すまぬが、煙草の火を貸してくれ」と言って近づき、「わしらは疲れているから、この荷物を麓(ふもと)まで運んでくれぬか。駄賃は望みどおりにはずむぞ」と頼み込んだ。

山賊たちは、手代が持っている荷物は千両箱であることを見抜いて、それぞれ1個づつ背負って峠を下って行ったが「1人の山賊が千両箱を背負ったまま、闇の中に逃げていった」

遊見は、少しも動揺せず、追跡しようとする手代に対して、「放っておけ。悪銭身につかずで、賭博や遊女に遣ってしまい、一文無しになるにちがいない。働くことの大切さを知らず、一生を台無しにしてしまうだけじゃ」と言った。

残ったもう1人の山賊は、遊見の大胆な気性に感服し、背中の千両箱を五個荘の本店まで運び込んだ。この山賊の態度に感服した遊見は、自家に引き取り、店の使用人として商いをさせたところ、誠実に取り組み、番頭になり、大阪店を任されるまでになった。

また、資金を融通したのが回収不能になった事件では、遊見はその返済を迫らなかった。訴訟もしなかったのに相手は悪口を叩いたので、店の者は憤慨した。

そのとき遊見は、「自分は相手を見る目が間違っていたのだから、不足は言うまい。相手が幸いにも富を得るに至り、訳のわかる男なら返済してもこよう。それが自分の代でなくても子孫が受ければよい」と言った。

遊見は非常な倹約家であったが、莫大な利益を貧民救済や社会福祉事業にあてた。年貢を納めることのできない五個荘村に貧民には、年貢を代わって納めたり、困窮している人たちや、老人、病気で生活に困っている人には、金品を与えて奮起するように励ました。さらには、道路や橋梁の修復等、巨額の出費を行った。

奢り(おごり)を防ぐ「陰徳善事」...初代中井源左衛門(号、良祐)

蒲生郡日野の初代中井源左衛門が、文化2年(1805年)正月、90歳のときにまとめた「金持商人一枚起請文」は、浄土宗を開いた法然の一枚起請文にならって富豪の秘訣を子孫に残した遺言である。

「金持商人一枚起請文」もろもろの人々沙汰(さた・論じる)し申さるゝハ、金溜る(たまる)人を運のある、我は運のなき抔(など)と申ハ、偶にして大いなる誤なり、運と申事ハ候はず、金持にならんと思はゞ、酒宴遊興奢(おごり)を禁じ、長寿を心掛、始末第一に、商売を励むより外に仔細は候はず、此外に貧欲を思はゞ先祖憐みにはづれ、天理にもれ候べし、始末と吝(しわ)きの違あり、無智の輩ハ同事とも思ふべきか、吝(りん)光りは消えうせぬ、始末の光明満ぬれば、十万億土を照すべし、かく心得て行ひなせる身には、五万十万の金の出来るハ疑ひなし、只運と申事の候て、国の長者とも呼るゝ事ハ、一代にては成かたし、二代三代もつゞいて善人の生れ出る也、それを祈候には、陰徳善事をなさんより全別儀(まったくべつぎ)候はず、滅後の子孫の奢り(おごり)を防(ふせが)んため、愚老の所在を書記畢(かきしるしおわんぬ)
文化ニ丑正月 中井良祐  識

金持ちを運のある人、自分は運がないと言う人がいるが、大きな間違いである。

金持ちになりたいと思えば、酒、遊興など、奢ったことを止めて長寿を心がけ質素倹約を第一に、商売を励むよりほかに方法がない。これ以上に貧欲を思うと、先祖の助けもなく天の道理にも外れる。

始末(質素倹約)とケチの違いがあるが、無知の連中は同じことと思うであろう。

ケチで貯めた財産は光がなく、すぐに消えてしまう。

一方、質素倹約を続けると広大な未来が開ける。このように心得て行動する人には、五万十万のお金持ちになることは疑いない。

しかし、国を代表するような大金持ちになることは、一代では難しく、二代三代も続いて善人の子孫が生まれ出ることが必要である。

それを願い祈るには、陰徳善事(人に隠れた良いこと・よい行い)を続けながら、子孫に善人を得るように祈るよりほかに方法はない。............子孫の奢りを防ぐため、自分の思うところを書き記した。

不道徳な商行為の禁止...二代目 中井源左衛門 家訓「中氏制要」

買置の事、相場の事、やし*の儀は、子孫門葉に至迄堅禁制たるべき也......
相場・買置のは賈術(こじゆつ)は所謂貧賈の所為、人の不自由を〆くくり、他の難儀を喜ぶものなれば、利を得ても真の利にあらず、何ぞ久しからんや
*やし......的屋(てきや)

買置(買い占め)、相場、やし(的屋・虚偽・詐欺)の事は、子孫に至るまで堅く禁止する。
相場を張ったり買い置きしたりする商いはいわゆる貧賈(貧しい商い)である。
人の不自由を強いて他人の難儀を喜び、そのことを気にかけないで得た利益は真の利益ではないので、家業が永く栄えることはない。

人生は勤むるにあり、勤むればすなわち匱(とぼ)しからず、勤は利の本なり、よく勤めておのずから得るは、真の利なり

人生の目的はまっとうに働くことである。働けば不足することはなく、勤勉は本物の利益である。
よく働くことによって得た利益こそが真の利益である。

人は人たる務を大切に心懸可ク申候、恩を忘ず冥加をおもひ、世の交り恭敬(つつしみうやまう)に、仮初(かりそめ)にも自立自慢の心なく、人の難儀をおもひやり、人の喜を楽み、自己の自由を止め其力に任せて窮迫を憐み(あわれみ)救志(すくうこころ)ならば、上は天の御心に叶へ。下は諸人の気受能(きうけよく)、商道の利運も其中に有べし

人としての責務を大切にすることを心がけ、恩を忘れず、神仏のご加護を思い身を慎み、仮にも慢心・奢りの心を持たず、人の苦しみ・苦労を思いやり、人の喜びを自分のことのように喜び、自分の好き勝手を止めて、人の困難に対して思いやり、救いたいと思う心があれば、上は天に通じ、下は人々から好意的に思われ、商売の利運もその中にあるべきである。

「はでな行動で人目をひくような見栄を張った商売は一切無用」 近江商人:山中兵右衛門

山中兵右衛門家は、享保3年(1718年)に駿河国御厨郡御殿場に店舗「日野屋」を構え、駿州、相州、豆州に店を拡大し、御殿場地方の一大商家に成長した近江日野商人である。
食料品から小間物・日用品を、万屋(よろずや)的商法でわずかな利益を積み重ねていった。初代は、寛保年間(1741~43)に人手に渡った居宅を買い戻し、延享2年(1745年)に家督を長男の二代目に譲って隠居した。没年は安永3年(1774年)、享年90歳。
二代目山中兵右衛門は、享保10年(1725年)に生まれた。 御殿場は隆盛となり、近隣の村々と卸・小売方法をめぐって争いを惹き起こすほどに成長。没年は文化2年(1805年)81歳。二代目は、10カ条からなる家訓「慎」を制定した。

二代目 山中兵右衛門 家憲「慎」 享和2年(1802年)一、惣(そう)年(とし)寄(より)役(やく)続けて仰(おお)せ付け為(な)れ候はば御上様の役儀の外に相用い申さざる様に平(へい)生(ぜい)慎み  第一の事
  附(つけた)り陰徳に相障り候事を考え弁之これあるべき事
一、仏事等大切に相(あいつと)勤(きん)め申すべき事
一、惣(そう)じて不(ふ)実(じつ)ヶ間敷事相慎み申すべき事
一、店仕入れ方諸代呂物(しろもの)何によらず吟味を遂(と)げ慥(たし)か成る宜敷代呂物を仕入れ売り捌(さば)き申すべき事
  附り不正粗末の品を取り扱い申す間敷事並びに高利を望む事無用也
一、御得意方へ諸代呂物(しろもの)何事によらず実儀第一の事
一、小さき御得意衆還って大切に致すべき事
一、伊達(だて)ヶ間敷商内(ましきあきない)一切無用の事
  附り商売随分内(うち)場(ば)に致すべき事
一、帳(ちよう)合(あい)指(さし)金(がね)物(ぶつ)並びに思い入れ商内訳(わけ)て無用の事
一、商売替無用の事
一、奉公人へ憐れみを申すべき事
  附り実(じつ)体(てい)に相勤め候者へは気を附け遣(つかわ)し申すべき事
右の通り相守り申すべき事        以上
享和二年
  壬戍春     光栄    行年七十八書

一、このたび、重ねて惣年寄役をおおせつかったが、役儀の他にお上のご威光をカサに一般町民に相対することがないよう、日頃からつつしみを第一とすること。
一、法事などのことは、大切に勤めること。
一、すべて、不誠実な行為を慎むこと。
一、店で仕入れる諸商品はどんなものでも十分に吟味して、確実で優良な商品を仕入れて販売すること。さらに、不正な商品、粗悪品を扱ってはならぬ。また、高利を望んではならない。
一、お得意様に対しては、諸商品の納入やその他、何事によらず誠実第一を心がけること。
一、小口のお得意様をかえって大切にすること。
一、見栄を張ったような外見の派手な商売は、一切してはならない。
  さらに、商売は万事につけて控えめ(堅実な商い)にすること。
一、米相場の操作など物価変動を見越して実物の受け渡しをしないで決済したり、思惑による投機取引は無用とすること。
一、商売替えをしないこと。
一、従業員には温情をかけ、誠実に勤めた人には十分な配慮をすること。
享和二年(1802年)

経営危機を迎えた四代目山中兵右衛門

四代目は文化2年(1805年)に生まれ、3人の兄たちが若死したため、21歳で家督を相続した。十分な訓練と経験を積むことなく1万4,000両余りの純資産を承継した四代目は、家業に身を入れなかった。相続して間もない文政12年(1829年)に、店支配人を始めとする奉公人一同から「恐れながら申し上げ奉り候」という弾劾要望書を受け取ることになった。

〔乍恐奉申上候〕今般、御親類衆中井ニ御母公様ヨリ書面到来承知仕候処、尊君様御儀、是迄商売筋何角之儀被為迎上候共、一切御聞入も無之おもむき、御家御相続も無覚速、店々中一統心配仕居候所、其上以之外御身持仍御不埒ニ、右之衆中ヨリ御利害も御座候趣、惣助惣兵衛ヨリも申参り候処、右衆ヨリ被迎候通り、御承知御取用ひ被下候ハヽ、店々一統安心仕候、其儀御不承知ニ候ハヽ、店々中一統連印之通、尊君ニ遣ひ候事不安心ニ御座候間、一統無余儀御暇申請度所存ニ御座候間、右御願之通御承知被成下度奉上候  以上
山中庄治様

本店
太兵衛 爪印
嘉 七 爪印
庄兵衛 爪印
藤兵衛 爪印
嘉兵衛 爪印
店奉公人中
(山)出店
店奉公人中
惣代 仁兵衛 印
(大)出店
店奉公人中
惣代 仁 助 印

爪印を押して記名した出店の支配人を始めとする奉公人一同から、山中庄治こと四代目宛の要望書である。内容は、日野の親類や母親からの書簡によって当主が一向に家業に精を出さないので案じていたところ、加えて家の利害に関わる不埒(道理にはずれた振る舞い)のことも、日野本家の惣助や惣兵衛からもたらされた。こうなった以上は、周囲の忠言を聞き入れて改心してもらうならば店一同も安心するが、聞き入れてもらえないときは、もはや奉公を続けることは出来ないので、店一統の者全員が退店の覚悟である。よって要望を受入れていただきたい。

四代目はこれを受け入れ、誓約書「矩定書」(模範を定めた書面)を作成して決着した。しかしその後も四代目は当主の自覚に乏しい所行を繰り返していった。以後、山中家は幼弱な当主が続き、家督相続は三代にわたって齟齬をきたした。それでも家業を維持できたのは、出店収益の25%を奉公人に配分する主法制度(主法金という報奨金支給制度)の導入などによる主家と奉公人の間柄が、所有と経営の分離関係にあったといえる。

「三方よし」の原典となった、中村治兵衛宗岸の遺言状「宗次郎幼主書置」...売り手よし、買い手よし、世間よし

商取引は、取引の当事者双方のみならず、取引自体が社会をも利することを求めたのが「三方よし(さんぽうよし)」の精神であり、近江商人の活動の普遍性を完結に語るものである。

近江国神崎郡石馬寺町(源:滋賀県五個荘町石馬寺)の麻布商、二代目中村治兵衛(法名:宗岸)が、嫡男3代目治兵衛(法名:宗壽〈そうじゅ〉)は、延享4年(1747年)9月26日に34歳で没したので、その遺児である娘(法名:〈妙壽〉)に養子・宗次郎を片山半兵衛家から迎えて4代目治兵衛を嗣がせた。

妻と子に先立たれた宗岸が初めて幼主の宗次郎へ「書置」を記したのは、1754年(宝暦4年)11月のこと。この「書置」には、家と家業の存在を15歳の幼い養嗣子の教え諭さなければならない、70歳に達した宗岸家の事情があった。

「三法よし理念を示す原典となったこの「書置」は、24カ条(「宗次郎幼主書置」11カ条、「追書宗次郎」13カ条)からなる遺言状「書置」文書は、3メートルにもおよぶ長文である。「宗次郎幼主書置」の8番目の条文には次のように書かれていた。

「宗次郎幼主書置」「一 たとへ他國へ商内ニ参候而も、此商内物此國之人一切之人々皆々心よく着被申候様ニと、自分之事ニ不思、皆人よく様ニとおもひ高利望ミ不申、とかく天道之めぐみ次第と、只其ゆくさきの人を大切ニおもふべく候、夫ニ而者 心安堵ニ而身も息災、仏神之事常々信心ニ被致候而、其国々へ入ル時ニ、右之通ニ心さしをおこし可被申候事、第一ニ候」

たとへ他国へ行商に出かけても、自分の持参した衣類等の商品は、出向いていったその国のすべての顧客が気持ちよく着用できるように心がけ、自分のことばかり計算して高利を望むようなことをしてはならない。
先ず、お客さまのためを思って計らうことを優先すること。行商の結果、利益を得れるかどうかは天の恵み次第であると謙虚な態度であること。ひたすら商品をお届けした地方の人々のことを大切に思って商売をしなければならない。
そうすれば、天道にかない、心身とも健康に暮らすことができる。自分の心に悪心の生じないように、神仏への信心を忘れないこと。持ち下り行商に出かける時は、以上のような心がけが一番大事なことである。

「宗次郎幼主書置」最初の11カ条の概要これまで我が家は農業に精を出し、少し蓄えができると田地を買い増し、堅実に暮らしてきたので、今後も借金をしてまで商いを手広くしようとすることは無用である。

成人した後も生活は奢りを禁じ、内輪に暮らすことが天道に叶い、世渡りも楽になるものである。自分よりも年上の者の言は、一応は聞き置き、後で善悪を判断して良いと思うほうを採用すること。

親を早く亡くした者は、親を手本にできないので、他人に笑われないよう常々心がけることが大切である。

商内は、手持ちの資金の6~7分で行い、3~4分は現金で所持しておくようにして、内輪に営業すれば養生にも良い。出入りの人々は丁寧に挨拶すること。山林の境界は、源助や又兵衛がよく承知している。

他国へ行商へ赴くときは、先ず第一にその土地の人々のことを大切に考え、自分のことばかり計算して高利を望むようなことをしてはならない。

宗次郎はまだ若年であるので、神仏への信仰心が世間の人より劣ることがないように、成人してからも神仏を大切にして息災に暮らすこと。

ばくち、勝負事、好き嫌い、奢りは天道に悖り(もとり)、家の没落となることは世間に多くの前例があることであり、これらの悪心が生じないように毎月神仏に拝むことを忘れてはならない。

世間に一人前と認められるまでは、一門の人々の云うことを聞き入れる素直さが大切である。

「追書宗次郎」追って書きの13カ条身の持ち方についての心構えは、前文「宗次郎幼主書置」に記したとおりである。特に、ばくち勝負事にかまけて身上をつぶすのは、心がけが悪いためである。

神仏への信心を忘れると悪心の虫が生じるから、ひたすら心をひとつにして我が子に身代を譲るまでの30年間は手代番頭になったつもりで家業に努めること。信心を大切にして、慈悲の気持ちを忘れてはならない。

男女の奉公人へ宗次郎相続の支援を依頼したいこと。質に取っていた田地が請け出されたときは、その旨を庄屋へ届け、その分の年貢負担控除の手続を忘れてはならない。

源助の妻おさんへ子供の着物用に木綿三疋を遣わすこと。又兵衛は、忠義の者であるので、今後とも家を見守ってくれるように頼み、蔵米の一部を与えるようにしてもらいたい。

金2両宛を石馬寺、乾徳寺、善福寺へ祠堂金としてそれぞれ上納すること。三代治兵衛家の第二養子として分家を興した中村武右衛門の実家である川並村の河井兵衛門へは、金5両を進呈すること。源助へは金10両を遣わしてもらいたい。

これらの米銭のことは、自分の没後7日以内に実行すること。 以上 

寶暦四年 戌十一月日 宗次郎殿

「見聞随筆」による初代小林吟右衛門の発言記録

「我ら細元手の小商人は、人々の力を借りて今日の渡世もする者なり」

初代小林吟右衛門は、近江国愛知郡小田苅村(東近江市小田苅町)で小林重内の次男として安永6年(17777年)に生まれた。小林家は農業のかたわら、縁日商人と呼ばれた零細な商いを営んでいた。寛政10年(1798年)に菅笠や呉服太物を近で行商を始め、その誠実な商いぶりを認められ、豪商:松居遊見から支援を受けて行商先を東海道筋から江戸、奥州・北海道へと販路を拡大した。また、呉服類卸のほか、両替商も営み、吟右衛門が60歳の頃には数万両の資産を持つ豪商となった。

天秤棒行商から豪商へ成功した吟右衛門が、どのような心構えでいたのかを追憶談として語ったものが「見聞随筆」に残されている。これは、吟右衛門な亡くなる4カ月前の安政元年(1854年7月78歳)に述べたもので、四代目矢尾喜兵衛が、同日、吟右衛門(丁吟)本家を江戸為替の取り組み依頼のために訪問して、居合わせた吟右衛門と座段に及んだ。

覚書「見聞随筆」 四代目矢尾喜兵衛天秤棒の商人より出精いたし大身代になるといふ、その様な目当てハほど遠きことにて、思ひて益なし、欲といへども欲にてもあらず、ただ我らごときの細元手の小商人は、人々の力を借りて今日の渡世もする者なり、実意にあらざれば人々力を添え呉れることなし、いかにも他人方へ不義理致さざるやう、人に損失をかけぬやうと、この心得第一とする時ハ、我ら身体を働き苦しめること厭ふことなし、我身を責め骨を折り苦しむ時ハ、人またこれを憐れむ故に、何ほどの身代を望むというふにあらざれども、恵みを以追々立身にもおよぶものなり、しかれども運といふことも全くこれあることにて、世にいふ因縁のよいといふも至て大事のことにて候

天秤棒を担いだような小商人から精を出して努めて大所帯となることを、始めから欲にかられて願望してもほど遠いことであり、そう思っても何の益もない。

自分だけの欲にかられることなく、ただ我らごときの細元手の小商人は、人々の力を借りて今日の商いを続けていく者である。

商いに実意(まごころ)がなければ誰も見向きもされない。

他人への不義理や損失などの迷惑をかけないようにと、この心得を第一すれば、労苦を厭わず懸命に働くことで立派な商人として認められ、やがては相当の所帯を築くことができるものである。

しかし、同時に幸運に恵まれることもあり、世に言う「良い因縁」ということも大事なこととして考えなければならない。

4代目小林吟右衛門 商号、丁吟(ちょうぎん)の「経営訓」

商法ヲ行イ候ニハ前以法則ヲ定メ取掛ルベシ
決断早ク
欲浅キ
朝起き
辛抱
腹八分

信用を重んじて利益を後にし、業務を楽しむ

足利(栃木県)に店舗を構える滋賀県五個荘出身の山村平八家の「商工格言」

常に店の者が目につくところに掲げられていたと推測され、声に出して読まれたものかもしれない。

「商工格言」常ニ正直ト勤勉トヲ旨トシ諸事親切ニテ熱心ナルベシ
客ニ接シテハ必ズ慇懃ヲ盡シ信用ヲ重ンジテ利益ヲ後ニシ業務ヲ樂シミテ不平ヲ抱カス
困難ニ出逢フトモ屈スル勿レ
真心ヲ捧テ主命ヲ守リ慈愛ヲ運ヒテ後進ヲ遇セヨ
品性ヲ養テ操行ヲ慎ミ法規ヲ遵守シテ約束ヲ履行シ善根ヲ心懸ケテ陰徳ヲ修メ他善ヲ随喜シテ嫉意ヲ起サズ神佛ヲ敬フテ信心ヲ励ミ忠孝ヲ貴ヒ修養ヲ努メヨ
錢厘ノ商ヒモ疎畧ニセズ商品ノ多少ヲ問ハズ親切ニ賣レ
朋輩互ニ和合シテ住シ何事モ堪忍シテ腹ヲ立テズ職業ニ貴賤ナシ唯心術ニ依ル健康ト忍耐トハ家ヲ興ス基勉強ト節約トハ福ヲ招クノ門ナリ
兮ニ安ズルハ進歩ノ土臺愉快ニ働ク者ハ自カラ天祐ヲ蒙ル人ノ為ニ盡スハ軈テ己ニ徳トナル一事ニ綿密ナレバ萬事ニ大成スルモノト知レ
王渚書

● 常に正直と勤勉とを第一とし、諸事思いやりをもって熱心であれ。
● 客に接しては必ず礼儀正しく尽くし、信用を重んじて利益は後に考え、業務を楽しんで
● 不平を抱かず、困難に出逢っても屈してはならない。
● 真心を捧げて主命を守り、慈愛をもって後輩を導け。
● 品性を養って日頃の行いを慎み、法規を守り約束を実行し、善根を心がけ、人に知られな
● 善行をし、他人の善行を喜び、ねたみを起こさず、神仏を敬って信心を励み、忠孝を大切に人格の修養に努めよ。
● 小さな商いもおろそかにせず、商品の多少を問わず親切に売れ。
● 共に働く仲間はたがいに結束し、何事もこらえて腹を立てない。
● 職業に価値が高いも低いもない、ただ心の持ちようである。
● 健康と忍耐とは家を栄えさす根本であり、勉強と節約とは福を招く門である。
● 自分の立場に満足することは進歩の土台、愉快に働く者は自然と天の助けを得られる。
● 人のために尽くすことは、やがて自分のためになる。
● 一つの小さな事も手抜かりないようにすれば、万事において大成するものと知れ。

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