経営危機を迎えた四代目山中兵右衛門

四代目は文化2年(1805年)に生まれ、3人の兄たちが若死したため、21歳で家督を相続した。十分な訓練と経験を積むことなく1万4,000両余りの純資産を承継した四代目は、家業に身を入れなかった。相続して間もない文政12年(1829年)に、店支配人を始めとする奉公人一同から「恐れながら申し上げ奉り候」という弾劾要望書を受け取ることになった。

〔乍恐奉申上候〕今般、御親類衆中井ニ御母公様ヨリ書面到来承知仕候処、尊君様御儀、是迄商売筋何角之儀被為迎上候共、一切御聞入も無之おもむき、御家御相続も無覚速、店々中一統心配仕居候所、其上以之外御身持仍御不埒ニ、右之衆中ヨリ御利害も御座候趣、惣助惣兵衛ヨリも申参り候処、右衆ヨリ被迎候通り、御承知御取用ひ被下候ハヽ、店々一統安心仕候、其儀御不承知ニ候ハヽ、店々中一統連印之通、尊君ニ遣ひ候事不安心ニ御座候間、一統無余儀御暇申請度所存ニ御座候間、右御願之通御承知被成下度奉上候  以上
山中庄治様

本店
太兵衛 爪印
嘉 七 爪印
庄兵衛 爪印
藤兵衛 爪印
嘉兵衛 爪印
店奉公人中
(山)出店
店奉公人中
惣代 仁兵衛 印
(大)出店
店奉公人中
惣代 仁 助 印

爪印を押して記名した出店の支配人を始めとする奉公人一同から、山中庄治こと四代目宛の要望書である。内容は、日野の親類や母親からの書簡によって当主が一向に家業に精を出さないので案じていたところ、加えて家の利害に関わる不埒(道理にはずれた振る舞い)のことも、日野本家の惣助や惣兵衛からもたらされた。こうなった以上は、周囲の忠言を聞き入れて改心してもらうならば店一同も安心するが、聞き入れてもらえないときは、もはや奉公を続けることは出来ないので、店一統の者全員が退店の覚悟である。よって要望を受入れていただきたい。

四代目はこれを受け入れ、誓約書「矩定書」(模範を定めた書面)を作成して決着した。しかしその後も四代目は当主の自覚に乏しい所行を繰り返していった。以後、山中家は幼弱な当主が続き、家督相続は三代にわたって齟齬をきたした。それでも家業を維持できたのは、出店収益の25%を奉公人に配分する主法制度(主法金という報奨金支給制度)の導入などによる主家と奉公人の間柄が、所有と経営の分離関係にあったといえる。

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