「先義後利栄」でなかったのか?

......ちょっとショックで長文の「まえがき」......

史料を探しても「三方よし」という言葉は出てこない近江商人を語るとき、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」という精神が、いつも真っ先に出てくる。出版物には必ずと言ってよいほど書かれている「三方よし」である。

「三方よし」という言葉が、実際に近江商人の誰かが発言したり、家訓に書かれていたり、共通言語となっていたとか、歴史的な史実として存在していたと理解している人も多いかもしれない。

しかし、近江商人の活躍した江戸時代や明治時代などの家訓や遺言書、口伝(くでん)等には、「三方よし」という言葉はどこにも見あたらない。また、史料(限られていることは否めない)を見るかぎり、すべての近江商人が「三方よし」を実践していたかというと、そうでもないことが分かる。

史料からは、近江商人が勤勉であること、正直であること、徹底した倹約、堅実な商い等、そして、「陰徳善事」を実践するという商売の精神に支えられていたことを読み取ることができる。

他国での商いである近江商人は、自分たちは「よそ者」という意識が強く、地元商人とは違うと心得るようにと、日頃から従業員に諭していたのである。商いは、自分の事だけを考えるのではなく、地域の人たちに必要・有用な存在であることにつながってこそ永続的な経営が可能だと考えた。

人知れず良い行いをして見返りを求めないという「陰徳善事」という精神が、商売地域での社会貢献のあり方として適切だと教えてくれる。また、それを実践したところに近江商人たるゆえんがある。

近江商人が実践したことは、「三方よし」という理念で共通することから、一般的な用語として使用されるようになった。

「三法よし」という理念を示す原典となった史料として、「宗次郎幼主書置」が有名である。近江国神崎郡石馬寺町(現:滋賀県五個荘町石馬寺)の麻布商、二代目中村治兵衛(法名:宗岸)が妻と子に先立たれ、幼主の宗次郎へ「書置」を記したのは1754年(宝暦4年)11月。この「書置」には、家と家業の存在を15歳の幼い養嗣子の教え諭さなければならない中村治兵衛家の事情があった。この書置の8番目の条文には、次のように書かれている。

「宗次郎幼主書置」
「一 たとへ他國へ商内ニ参候而も、此商内物此國之人一切之人々皆々心よく着被申候様ニと、自分之事ニ不思、皆人よく様ニとおもひ高利望ミ不申、とかく天道之めぐみ次第と、只其ゆくさきの人を大切ニおもふべく候、夫ニ而者 心安堵ニ而身も息災、仏神之事常々信心ニ被致候而、其国々へ入ル時ニ、右之通ニ心さしをおこし可被申候事、第一ニ候」

たとへ他国へ行商に出かけても、自分の持参した衣類等の商品は、出向いていったその国のすべての顧客が気持ちよく着用できるように心がけ、自分のことばかり計算して高利を望むようなことをしてはならない。

先ず、お客さまのためを思って計らうことを優先すること。行商の結果、利益を得れるかどうかは天の恵み次第であると謙虚な態度であること。ひたすら商品をお届けした地方の人々のことを大切に思って商売をしなければならない。

そうすれば、天道にかない、心身とも健康に暮らすことができる。自分の心に悪心の生じないように、神仏への信心を忘れないこと。持ち下り行商に出かける時は、以上のような心がけが一番大事なことである。

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