家風に合わないので断らざるを得ない...尾張藩資金調達拒絶事件

天保13年(1842年)、藩財政が緊迫して苦しい状況あった尾張藩は、念願の近江八幡を領地とすることに成功。その翌年に、地元の近江商人である梅村甚兵衛や岡田小八郎らの有力な近江商人を世話方とした調達講(貸金組合)を組織させ、尾張藩は3万1,000両を入手した。

尾張藩は、嘉永2年(1849年)に再び近江八幡で資金集めの調達講を西川屋善六、菊屋九右衛門を世話方として組織をつくった。この時の調達金の申し付けを外村与左衛門家が拒否し、そのため調達講が不成功となった状況を、世話方が尾張藩へ報告した古文書の収録内容は次の通り。
(近江商人事蹟写真帖 昭和2年 滋賀県経済協会発行)

「この種の講の加入は、家風に合わないので断らざると得ない。権門(賄賂)や大名への貸し付けもお家の法度(禁じられていること)なので断らなければならない。先年の名古屋商人を介して調達講への勧誘も同じ理由でお断りしたところ、御奉行は大いに立腹したと聞いている。講に加入しない以上、名古屋城下への立入を封じられてもそれは覚悟の上である。ところが、またしても今度は八幡町から誘いがあったのは心外である(中略)。
それにこのように二度までも調達講をお断りした以上、外村与左衛門は名古屋での商売を差し止められることは覚悟している。しかし、このような理由で外与が立入禁止となれば、他の近江商人の出入りも次第に少なくなり、ついには尾州名古屋は衰退するであろう。」

外与の主張は、たとえ尾張藩のご威光といえども、経済原則を無視した強権的な経済政策は、決して成功するものではないと進言をしている。また、近江商人は、誠実な商業精神に則して商売をしており、そのような不当な要求を拒否する気概を持たねば商人でないとする堅い意志を述べたものである。

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